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『ゲーム的リアリズムの誕生』読了。
評価:
東 浩紀
講談社
¥ 840
(2007-03-16)
Amazonおすすめ度:
本書の普遍性とは?
これは商業出版していいレベルなの?
東さんが何を思って書いたのか


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東浩紀という名前を意識しだしたのは、つい最近の話だ。

その名前自体は、様々なところで目にしていたし、雑誌への寄稿や小説の解説などで文章を読んだこともある。でも、それが「東浩紀の書いたモノだから」という意識で読んだことはなかったと思う。

東浩紀の本を読んでみようと思った理由は、ポッドキャストで語っておられるのをたまたま耳にしたからだ。話の内容もさることながら、とても熱いトークで僕の心を鷲掴みにしてしまった。これはもう何か読んでみるしかない!と思って、この『ゲーム的リアリズムの誕生』を手にしたのだ。

感想から先に書くと面白かった。

ここから先は、僕の備忘録。
本の中で語られていたことを、何箇所か引用する。

まず、ライトノベルの定義についての言及。
東浩紀はライトノベルを「キャラクターのデータベースを環境として書かれる小説」と定義する。
ライトノベルの作家と読者は、戦後日本のアニメが育てあげてきた想像力の環境を前提としているために、特定のキャラクターの外見的な特徴(さきほどの引用箇所では「眼鏡」「小柄」といった表現)がどのような性格や行動様式(「神秘的な無表情系」「魔女っ娘」)に結び合わされるのか、かなり具体的な知識を共有している。したがって、彼らは、作品の中に(たとえば)小柄でドジな女の子が現れれば、半ば自動的に、彼女がこの状況ではこうする、あの状況ならそうする、と複数の場面を思い描くことができる。作家もまた、読者にそのような能力、いわば萌えのリテラシーを期待して、キャラクターを造形することができる。
この定義に僕は全面的に同意できる。キャラクターという言葉には「世界観」まで含まれていると解釈していいだろう。

おそらく、この定義を起点に考えるなら、ライトノベルの作家は物語を作る際に、まず、キャラクターから発想する筈だ。実際、ライトノベルの作家を目指している人と話すと、まず、キャラクターと世界設定を作って、それを生かす為の物語を用意すると言う手順の人が多いように思う。実を言うと、僕もどっちかというそっちに近い。

ただ、これは物語の中にテーマやモチーフがないということではないだろう。テーマやモチーフまでキャラクターの中に内包していると考えるべきだ。

次に純文学についての言及。
「純文学は現実を描いているという期待で支えられている」とした上で、東浩紀は以下のように続ける。
そのような期待が典型的に現れるのは、芥川賞受賞作をめぐる報道記事である。それらの記事では、多くの場合、小説の内容が社会問題と結びつけられて語られる。ミステリやホラーは娯楽のために読むが、純文学は娯楽ではなく、社会をしるため(たとえば、ニートの現在や在日韓国人の現在や独身女性の現在をしるために)教養として読むという前提が、この国では半年ごとに再強化されている。
純文学というカテゴライズもライトノベルと同様に定義が難しいものだと思うけど、たしかに純文学が社会的な評価によってその他の小説よりも一段上の存在として一般的には認識されているのは間違いない。

例えば大学の卒論で、純文学の作品をテーマに選ぶのは有りなんだろうけど、ライトノベルの作品について語ろうとすると、作品論ではなくその作品を通しての社会論みたいのが、おそらく要求される。

僕の考えとしては、純文学もライトノベルも作品の中身自体に、さほど大きな差を感じられない。にも関わらず、それが出版された場所によって、社会的な作品の評価が変わってしまう。なんだかなあ。

そして、この本の中では、ライトノベルに留まらず、美少女ゲーム(僕的にはギャルゲー、エロゲーの方がしっくりくるけど)にまで論の範囲を広げて『ひぐらしのなく頃に』などへの言及がある。ここで取り上げられたゲームをプレイしていないので、実際のゲームがどういう内容かは分からないけど、ここで語られている「メタ物語」というのが面白い。
現代の物語的想像力は、いくども繰り返しているように、キャラクターのデータベースの隆盛とコミュニケーション志向メディアの台頭という二つの条件の変化のため、メタ物語的な想像力に広範に侵食されつつある。ひらたく言えば、そこでは制作者も消費者も、ひとつの物語を前にして、つねに他の結末、ほかの展開、ほかのキャラクターの生を想像してしまうし、実際にはその多様性は、メディアミックスや二次創作として具体的に作品を取り巻いている。
本来、物語の外側、つまり作品の外にあるべき視点を作品内に持ち込むという試みも、たしかに最近、増えている。昔からあるのは、ギャグ漫画なんかで、作中に作者が登場するパターン。『Dr.スランプ』なんかでもそういうシーンがあった筈だ。これも一種のメタだと思う。

しかし、ここで言及されるのは、作者ではなくプレイヤーが物語に主人公としてではなく、プレイヤーのまま物語に参加するという構造のメタ。何だか知らないうちに、ライトノベルや美少女ゲームの世界は、とんでもなく実験的で文学的な方向を模索していたんだなと、ちょっと感動してしまった。

この『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んで、やっぱり僕はアンテナの張り方が足らないと改めて思った。もっと、アンテナを張らないと時代についていけてないな。

やっぱり、東先生の仰るように『仮面ライダーディケイド』をチェックしないとダメなのかな。『仮面ライダーW』も見た方が良いですか?


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